都内で1男1女(2006.02生、2008.07生)の子育てをしています。
食事、お掃除、手当て、保存食作り、子どもたちとの会話、手作り、沖ヨガ、野口整体、、、我が家の台所からお届けします。           
台所日記1 娘が生まれてからの台所日記  http://meg3life.seesaa.net
YOGA CAFE ヨガクラスやワークショップのお知らせ http://meg3yoga.seesaa.net

2013/05/20

亡くなった人の存在を思う日

しっとり雨の日。

そういえば、最近「今日は生憎の雨ですね。」や、
人が命を終えることをただ良くないこと、悲しいこと。
と思わなくなってきています。

晴れの日の気持ち良さ、
生きて、会えることの幸せを実感しているからこそ、
その裏側も同じように肯定していたい、そんな感じです。

昔の人は、朝ではなくて夕暮れを一日の始まり、
金曜日の夕方を一週間の始まりと考えていたそうです。

眠りに入る前の静かな時間を一日の始まりととられ、
夢の世界に旅に出る、という世界観。

日中の営みを中心に捉えたときよりも、
無意識の時間の意味や、眠りの時間と起きている時間とのつながりを
想像できるようになる気がします。

生きている人の世界と死んだ人の世界もそのようにして、
つながりがあるのではないかな?とわたしは思います。

来週は父の四十九日の法要です。

父が亡くなった晩も、祖母が亡くなった晩も、
そして大家さんのお通夜のときも今日のような雨が降っていたので、
娘を幼稚園に送った後、ふと思いがあふれました。
亡くなった人の存在の強さについて思う日。

4月、父の様態が悪化したとの連絡を母から受けました。

父は何度も危篤状態から回復を繰り返していたのですが、
「お父さんが自分で『命が終わる。」って言っているから、
もう回復することはないと思う。」と涙ぐんだ母の声を聞いて、
わたしも神奈川の病院に駆けつけました。

子どもたちを学校と幼稚園から引き取って、
だんなさんの両親に預け、急いで向かっても2時間。
「間に合って!」という思いで病院に到着。

拍子抜けなくらいのどかな光景。
とても晴れた日。病室で父を囲んだ母と妹家族。
わたしも揃うと、父は小さな声で「良かった。」と言って、
無邪気な顔で微笑みました。

痛み止めをして、酸素マスクをしているのに、
意識がもうろうとする度に、母の呼びかけに幸せそうな笑顔で答える父。

その晩は母と2人で父に付き添いました。
父の手を握って色々な話を聞きました。

父は10年前に血液の病気が分かり、
治療法もないまま、ずっと病気と一緒に歩んできました。
なんとか定年まで勤め上げ、
残り3年、できるだけ家で生活したいということで、
静かに静かに母と二人三脚の生活。

結婚して子育てに追われるわたしは、何の手助けもできませんでした。
愉気もお父さんにはしたことなかったな。
なぜか触れられなかった。
母が毎晩マッサージをしていたよう。
触れる強さの加減など、きっと母にしか分からないものがあったはず。

父と娘というの関係。
だんなさんに「姉妹でお父さんの取り合いとかあったの?」と聞かれ、
母とわたしで「そういうことは全くなかったよね〜!」と答えたことがありました。

そう、ファザコンになるようなタイプの人ではありませんでした。
ヒョロッとしていて「男らしさ」とは縁遠い感じ。
わたしも妹も、なぜか父とは違ったガッチリ骨太タイプの人と結婚しました。

けれども、父の人生がわたしに与えてくれた影響は大きいと思います。
接点の多さとか会話の多さではなくて、
存在自体が今もわたしの中で生きている気がします。

父は幼少のときに父親を亡くしていて、
後に入った義父と妹2人と一緒に育ちました。

妹とけんかをすると「もらわれっこのくせに。」が決め台詞、
夏休みになると母方の田舎に1人預けられ、
トンボが飛び始めるとお母さんが迎えに来てくれる、
と期待しながら居場所のない夏休みを過ごしたそうです。

少し複雑な生い立ちの影響か、
大学で哲学を学んだり、孤独と友達みたいな人でした。

わたしにとっても父方の祖父の存在がぽっかりを空いていて、
義祖父も可愛がってくれましたが、
「知らない存在、語られない存在」の大きさが、
父のもつ謎深い雰囲気に結びついていたように思います。

父と義祖父との関係がぎくしゃくしたときも、
どちらも愛されたい、認められたいだけなのですが、
こじれた人間関係を修復するのはとても難しいということを知りました。

けれども、たっぷり時間をかけて、
父は病気で普通の人以上に早いスピードで老いて、
「義父の気持ちが分かってきた。」と言っていました。

もうすでに仲直りはしていたけれど、
本当の意味での和解はそのときだったのかもしれません。

同じ頃、叔母が、祖父の写真を送ってくれ、
はじめてどんな人だったのか顔を知ることができました。
叔母たちも父のお見舞いに何度も来てくれました。
糸がほぐれていくのを、母もわたしも感じとりました。

娘のわたしも、両親に甘えてばかりで、
父が病気になってもそれは変わらなくて、
病気をしている父に不甲斐なさを感じたりしていました。

けれども、父が亡くなる1ヶ月前に、
近所の喫茶店でものすごい勢いで手紙を書きました。

小さい頃一緒にバトミントンをしてもらったり、
母が揚げたトンカツを美味しそうに食べる姿、
夏になると山登りに出かけ、無精髭をはやして帰って来た父の姿、
「お父さん、また惰洒落を言って〜。」と笑った日々を思い出しながら。

「大切に育ててくれてありがとう。
何があっても自分を肯定できるのは、お父さんのおかげです。」

父は義父や自分の生い立ちの愚痴をほとんど言わなかったので、
語らないこと、その強さと清さと同時に、
わたしたち家族は絶えず緊張感がありました。

わたしが結婚し子どもを育てるようになって、
父は「家族」とか「当たり前の幸せ」を、
普通の人以上に大切に守ろうとしていたのだろうな、
それは頑な思いだったのだろうと思うようになりました。
父の愛情表現が不器用だったので、当時はそんな風に受け取れなかったけれど。

自分が育った環境と違うことをすることは本当に難しいです。
虐待された人が分かっていても自分の子に同じことをしてしまったり。

わたし自身も、自分が親にされて嫌だったことを
子どもたちに無意識にしてしまっていることがあります。

誰かが止めないとずっと続いていく「カルマ」
わたし自身が向き合っている課題。

父はカルマを超えて母やわたしたちを愛してくれたのだな、
と感謝の気持ちでいっぱいになりました。

「どうしてこんなにがんばれるのだろう。」というくらい
痩せて、何もできなくなっても生きてくれたのは、
家族に色んなこと考えたり、気づいたりする時間をくれたのかな、
とさえ感じてしまいます。

結局手紙は渡せなかったけれど、
最期に感謝の気持ちで送り出せました。

誰でもきっとある闇の記憶、感情。
無理矢理忘れたり消したりしないで寄り添って、
光の部分と一緒に育んでいくと、いつかは癒える、
そう信じることが今できています。

父への思いをつらつらと綴りながら思ったこと。
雨と一緒に流して、また明日。

0 件のコメント:

コメントを投稿