冬になるとき、いろいろ思いを巡らせて整理したいなぁ、と思う。
でもなぜか、家だとそわそわ。
ちょっとざわめいたドトールへ行って、読みかけの本を読んで。
たまに「ご褒美!」とスイーツを注文してみるも、
「そんなに美味しくなかった。」と感じて帰る。
それでも、何度か確かめちゃったり。
人に入れてもらったコーヒーは美味しい。
でもやっぱり自分のうちに帰っていくつか掃除や片付けをすると、
おのずとシャンとしていくから面白い。
おやつもたまに作ってみると、ほかほかしているだけで美味しい。
結局、外側の刺激で満足させようとしてもその場しのぎ。
内側と向き合って、お掃除して、リズム良く。
こう書きながらも、ときどき子どもたちが「見てみて〜!」と寄ってくる、
そんな午後がわたしにとっての日常。
昨日は子どもたちと「こどもの国」へ行ってきました。
わたしも子どものときよく両親に連れて行ってもらった場所。
ひさしぶりに3人で子ども時間を過ごす。
子育てが得意なほうではなかったけれど、
なんとなく今ならわかる。
子どもの心地よい時間の流れを感じ、共に過ごすことが、
いろいろなことを円滑にしてくれるのだろうなぁ、と。
学校やお父さんや「合わせないといけない」場所での葛藤を和らげる、
それは大きなご褒美をあげることでもなくて、
正しさや答え、処世術を教えてあげることでもなくて、
ただただ、そのとき子どもが心地よいと感じる時間の流れに
寄り添うことなのではないかな。
あまりにも簡単で、アドバイスにもならないことだけれど、
子どもたちが大きくなってきて、
やっと客観的に言葉でにできるようになってきました。
昨日はそんな時間を一緒に過ごして、
3人とも満足して帰ってきました。
兄妹のけんかの種も、昨日は空気の中に逃げるように、
お互いの笑い声に消えていってしまう。
こういうことを自然とできる人をみると「素晴らしいなぁ。」とよく思っていたけれど、
苦手でも、不器用でも、この感覚を一度感じることができたら、
たまに戻れるといいな、と思えると思う。
この間、たまたま家族4人で他愛ない話をしていたとき、
9歳の息子が大爆笑をしました。
本当に大したことではなかったのだけれど、
そのときの息子の無邪気な表情と目の力が、
なんか久々にみた気がしてキュンとなりました。
夜寝る前に旦那さんも「今日のT可愛かったね。」と言っていて、
「やっぱり!あのときドキッとしたよね。」と共感。
もっと小さな頃は毎日のようにみていた表情。
4頭身くらいだったあの頃の息子が急にここにやってきたかと思った。
今だってよく笑って元気で可愛いのだけれど、
久しくあの表情を見ていなかったのだなぁ、と反対に気付いたのです。
それが成長ということでもあるのだと思う。
久しぶりに無邪気な息子に会えた嬉しい気持ちと、
そのうちにこんな顔を本当に見なくなるのだろうなぁ、という寂しい気持ちと、
自分の子とかそういうことを超えた、
子どもが持っている美しい生命力に触れて、
立ち会えることに無性に感謝の気持ちが湧いてきて、
全部がひっくるめの不思議な時間でした。