久しぶりの更新です。
21日に父が旅立ちました。
色んな思い出を思い出したいのですが、
最期家族で父と対面したときのことでさえ、
葬儀を行う前よりも記憶が薄れてきていることに寂しさを感じます。
一方で、そういう状況を受け入れている自分もいます。
強がるという意味ではなく、
同じ経験をしても人によって全く違う「記憶」になることがあるように、
同じ人の中でも「記憶」は書き換えられていくものであるということ。
また、意識の上では覚えていないことも、
きっと深層のところでは経験として刻まれていることがあるのだと思います。
いつか必要なときにふっと現われるために、
今は胸の奥底で休んでいるのかもしれません。
4歳の娘は、火葬場で「おじいちゃんのお腹
焼いたらパンみたいにふくれるの?」と子どもらしいことを言ったり、
「おじいちゃん心の人になるの?」と哲学的なことを言ったり、
初めて不思議なことに直面して質問がたくさん。
7歳の息子は弔報を伝えたとき
「それじゃ、おばあちゃんは1人になっちゃうね。」とまず母を気遣い、
「おじいちゃん、本当に良い顔をして眠っているね。」と何度も言ってくれました。
父が苦しそうにしている姿も見たことがあるからでしょうか。
幼いながら感受性が豊かな娘、
人との関係性の中でものごとを捉える優しい息子、
それぞれの良いところが見えました。
旦那さんもわたしの父の思い出話を丁寧に聞いてくれました。
身内を見送るときに、同じ思いで悲しんでくれる人が居ることは、
とても幸せなことだと思いました。
長年煩っていた父を支えてきた母とも、疲れを癒しながら、
忘れて笑ったり、思い出して泣いたり、
新しい生活を歩んでいきたいと思います。
想う人が居るということは、お守りが増えたような気がしています。
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